端的に言うと『古の大帝に恭順した諸侯にならい、エドナの領土を広げてこい』 大公から下されたいささか理不尽な命令に従うロンドベルド率いる一団は、ルウツとエドナの国境に沿って任地であるアレンタへと向かっていた。 だが、エドナの首都からアレンタへと向かうその行程は予想に反し、すこぶる順調だった。 『長らく続く戦乱で国境が曖昧になっている地域を北上しエドナの威を示せ』という命令は、まさにロンドベルトのためにしつらえられたようなものだった。 ルウツからは『黒い死神』と恐れられるイング隊の黒旗を目にするなり、国境沿いの村や町に暮らす人々は、自ら進んでエドナへの恭順を示した。 そんな町や村をいくつも巡ることしばし。このまま行けば、一戦も交えることなくエドナの領土は確実に増加する。 だが、ロンドベルトの表情は晴れるどころか、どんどんと暗くなっていくようである。 それを気にしてか、首都から付き従っていた参謀が恐れながら、と切り出した。 「いかがなさいました? お顔の色が優れないようにお見受けいたしますが」 この参謀という人とロンドベルトとは付き合いこそ長いが、せいぜい作戦行動について話すくらいで、普段腹を割って話すほど親しい間柄とは言い難い。 無論ロンドベルトは、自らの眼に関する秘密を参謀にはあかしていない。 けれど、 その付き合いの長さは、ほんのわずかな変化をも日の本にさらしてしまうようだ。 ふとそんなことを思い、どこか自嘲気味な苦笑をひらめかせてロンドベルトは答えた。 「いや、こうも簡単にことが運ぶのが不気味だと思ったのと……」 「と、何でしょう」 生真面目に問い返してくるところは、アレンタの師団長を思い出させる。 だが、その人となりはどこか掴みどころがない。 不在の副官とは違い、本心から信用しきれないのは、おそらくこのせいだろうか。 最悪エドナの情報局から送られてきた監視役かもしれないと疑ったこともある。 そんなことをぼんやりと考えながら、ロンドベルトは言葉を継ぐ。 「どこの集落もだいぶ
練兵場にたどり着いたものの、珍しくミレダの姿がない。 どうやら今日は殿下をお待たせせずに済んだようだ。 ほっと安堵の胸をなで下ろすと、ユノーは鞘からすらりと剣を抜き、決められた型を一つずつさらっていく。 最後の一つの型まで終えた時、彼の耳に拍手の音が飛び込んで来た。 まさかあの殿下がそんなことをするはずがない。そう思いつつ、ユノーはおそるおそる振り返る。 「お見事でした。さすがは司令官殿だ」 予想外の 賛美の言葉と共に現れたのは他でもない、愚昧公ことフリッツ公イディオットだった。 あわててユノーは剣を収め、その場にひざまずきかしこまって頭を垂れる。 「お恥ずかしいところをお見せして申し訳ございません。にもかかわらずお褒めの言葉をいただき……」 が、フリッツ公はその手をひらひらと振って、その言葉をさえぎった。 そして、ゆっくりとユノーに歩み寄る。 「私にそこまでかしこまることはありませんよ。何せ私は愚昧公ですから」 悪びれもせず自らの二つ名を言ってのけるフリッツ公に、ユノーは言葉を失う。 しかしフリッツ公は人好きのする笑顔を浮かべ、ユノーを見つめるのみだ。 この人は一体。 とらえどころの無いフリッツ公の行動に困惑すし、ユノーはひざまずいたまま言葉を失う。 それを気にするでもなく、フリッツ公は冗談めかしておもむろにこう切り出した。 「実は貴方にお渡したい物があって来たんです。……殿下が居られなくて良かった」 果たしてどこまでが本気なのだろう。 測りかねて内心首をかしげるユノーの前に、フリッツ公は一冊のやや古びた本を差し出した。 戸惑いながらも受け取るユノー。よくよく見てみると、果たしてそれは初歩の兵法書だった。 芸術に傾倒し政(まつりごと)に感心を持っていないというフリッツ公は、無論軍事にも興味がないともっぱらの噂である。それなのに、どうしてこんな物を持っているのだろう。 驚いてユノーは公爵を見つめる。 その視線を受け止めて、公爵は寂しげに目を伏せた。 「先日屋敷の書庫を整理していたら、出てきたんです。今の私には無縁な物ですから」 その言葉を受けて、ユノーは手にした本と公爵を代わる代わる見つめる。 いつしか公爵の顔には、件の微笑みが戻っていた。 「ならば、役に立てていただけ
夕闇の中、荒れ果てた休息所は暖かな焚き火の炎に照らされていた。 浮かび上がるのは、二人の男と一匹の黒猫といういささか奇妙な一行である。 焚き火の側でころんと丸まる毛糸玉の姿を眺めやりながら、シエルはまるで他人ごとのようにペドロに問うた。 「で、一体皇都では何が起きているんだ?」 一方問われた側のペドロは面白くなさそうな表情で火をかきまわしながら、礼儀正しくかつどこか突き放したように答える。 「なかなか厄介な事になっていますよ。陛下直々にあなたへの指名手配書が出ています。早い話が賞金首ですね」 「やれやれ、ずいぶんと嫌われたな。それをわざわざ知らせに?」 「いいえ、もとはといえば、あなたが妙な手紙を書いたりするからです。あなたがあんなことを言わなければ、殿下も暖かく見守ってくれたでしょうに」 「ずいぶんな言い方だな」 「そのくらい言わないと、あなたは聞いてくれないでしょう? 違いますか?」 だが、ペドロの言うことは図星だったのだろう。シエルは返す言葉もなく視線をさまよわせる。 それからおもむろに、無言のままシエルは鞄の中からガロアの村で手に入れたパンを取り出そうとすると、毛糸玉ぴくんと頭を上げた。 そちらに笑ってみせてから、シエルはペドロに向かい、お前も食うかとでも言うようにそれを掲げてみせた。 けれど、ペドロは無言で首を左右に振り、さらに抑揚のない口調で続ける。 「いえ、遠慮します。……蒼の隊はあれ以降、ロンダート卿の配下に置かれました。殿下の独断ですので、部隊の中には反発する者も少なくありませんが」 「元々寄せ集めの傭兵部隊だ。今更どうなっても構わないだろ?」 素っ気ないその言葉に、ペドロはやれやれとでも言うように肩をすくめて見せる。 「無責任ですね。皆あなたに命を預けていたのに。あなたはいとも簡単にそれを投げ出す」 「俺にはそれだけの器はないし、資格もない」 「決めるのは、彼らです。あなたではない。違いますか?」 探るようなペドロの視線を意に介することなく、シエルはパンと干し肉を切り分けていた。 果たしてその声が届いているかは定かではないが、ペドロは言葉を継ぐ。 「いかんせんあの方……ロンダート卿は、人柄は申し分ないが経験がない。加えて残念ながらその能力が開花するまでの猶予が
長引く戦乱ですっかり荒れ果てた旧巡礼街道は、聖地に向かい真っ直ぐに延びている。 長引く戦で行き交う人々の姿は皆無に等しいその道を、薄汚れ毛羽立ったたマントをすっぽりと被った男がただ一人、黒猫を従えて歩いていた。 不意に一陣の風が灰色の砂埃を巻き上げる。 男は不意に足を止めると、振り向くことなくこう言った。 「行きずりの不良神官一人を相手に、ずいぶんとご大層じゃないか」 言葉が終わると同時に、男の背後に黒い影が現れる。一つ、二つ……全部で四つ。 それらは音もなく走り寄ると、前後左右から彼を取り囲んだ。 手には各々、鎌や短刀を持っている。騎士が持つような剣ではないところをみると、真っ当な武人ではなく雇われた暗殺者といった類の人間だろう。 「あいにく急ぐ旅だ。こんな所で遊んでいる暇はない」 けれど、暗殺者達はその願いを聞いてくれそうもなかった。 各々手にした武器を構えながら、じりじりと彼との間合いをつめてくる。 やれやれと苦笑を浮かべながら、彼は腰を落とし身構えた。 が、大きな荷物をおろす様子も武器を手にする気配もない。 暗殺者の一人が、低い声で告げる。 「何をしている。早く武器を取れ」 その言葉に彼は斜に構えた笑みで応じる。 「旧道とは言え、ここは聖地に連なる巡礼街道だ。血で汚す訳にはいかない。それに……」 取り巻く暗殺者達をぐるりと見回してから、彼は嫌味を込めた口調で更に続けた。 「多少のハンデがなければ、不公平だろ?」 その一言が合図となった。 四人はほぼ同時に彼に向かって飛びかかる。 奇声と同時に彼に迫る刃。 彼が上半身を沈めると、セピアの髪が数本断ち切られ宙に舞った。 空気をはらみ大きく翻ったマントが白刃を阻む盾となり、暗殺者達は彼の身をかすめることすらできない。 薄笑いを浮かべたまま、彼は舞うような足取りで自らに振り下ろされる武器をよけ続ける。 が、らちが開かないと判断したのか、彼は藍色の瞳をすいと細めた。 「悪いが、これ以上遊んでいる暇はない」 逆なでするような言葉に、四人の顔は等しく紅に染まる。 怒りが辛うじて保たれていた統率を乱した。一人が雄叫びと共に突進してくる。 ちらと視線を向けると、彼は突き出された腕をやり過ごし、その手首に手刀を叩き込んだ。
視界の先に見えてきた小さな家の煙突からは、白い煙が立ち上っている。 何事かとテッドは固い表情を浮かべ扉を押し開く。 が、すぐにそれは安堵の笑みに変わった。「母さん! 起きて大丈夫なの? もう少し寝てたほうが……」「お客様を放り出してそうもいかないでしょう?」 そう言う女性は顔色も良く、もうすっかり回復しているように見える。 喜びを隠そうともせずに、テッドはかたわらに立つシエルに深々と頭を下げた。「ありがとうございます! なんてお礼をしたらいいか……」「俺は何もしちゃいない。お母上の治ろうとする意志の力さ」 素っ気なく言ってから、シエルはテッドの母に向き直る。「無断で押しかけた上、食事に宿まで提供していただき感謝します。この上は……」「人は一人では生きていけないものですよ。たとえどんなに知恵を身に付けたとしても。この子も今回の件で、良くわかったと思いますよ」 微笑む女性に、テッドはばつが悪そうに頭をかく。 あの時あの森でシエルに出会わなければ、毒草を母に飲ませていたかもしれなかったのだから。 一方のシエルも、どこか照れくさそうに視線を泳がせた。 そんな二人の様子を前に女性はさらに笑うと、朝食の準備はできていますよ、と言いながら机に皿を並べ始める。 テッドは弾かれるようにそれを手伝い始め、残されたシエルは所在無げに戸口に立ち尽くしていたが、足元に異変を感じ視線を落とした。 すると、いつの間にか毛糸玉が転がっている。「お前は本当に現金だな。食い終わったらすぐそっぽを向くくせに」 その言葉の意味を理解しているかのように、毛糸玉は一声にゃあと鳴いた。 憮然として毛糸玉を見下ろすシエル。そうこうするうちに、朝食の支度はすっかり整っていた。 どうぞこちらへと言うテッドに、シエルは小皿を一枚持ってきてくれるよう所望
嵐のような一日の翌朝、テッドは目が覚めるなり母の様子をうかがうと、未だ穏やかな寝息を立てていた。 机の上には、薬草を煎じた薬で満たされた椀がのっている。 昨日のことは夢ではなかった。 と、テッドはあることを思い出した。 他でもない、あの人相描きである。 はたしてあの人が村人の目についたら、大変なことになるだろう。 テッドはおぼつかない足取りで客人がいるはずの納屋へと急いだ。 息を整えてから閉ざされた扉を叩き、返事を待つのももどかしく力任せに押し開いた。「シエルさ……ま?」 薄暗い室内に、シエルの姿はない。 昨日テッドが作った藁の寝台の上には、真っ黒な猫が転がっている。 膨れた鞄は置きっぱなしになっているので、出発してしまったわけではなさそうだ。 安堵の息をついてから、テッドは考えをめぐらす。「まさか……」 思わず声を上げるテッド。 それに答えるかのように、毛糸玉の耳がぴくりと動いた。 黒い毛糸玉は背を丸め大きく伸びてからあくびをし、金色に光る瞳でちらとテッドを見てから、何事もなかったかのように毛繕いを始めた。「お前、そんなことしてる場合じゃないだろ? ご主人がいなくなったんだぞ」 やれやれとため息をついてから、テッドはくるりと回れ右をして納屋を走り出た。 ※ 道の両脇には茶褐色の大地が広がっている。 わずかに秋蒔きの麦が風に揺れているのだが、いずれもひょろひょろとして力無く、このままでは大した収穫は期待できそうもない。 その弱々しい緑の中に、目指す人はいた。 思わずテッドは思わず安堵の息をつく。「シエル様……こんな所で何をしてるんですか? 誰かに見つかったら……」 そこまで言ってしまってから、テッドはあわてて口をつぐむ。
納屋にうずたかく積まれている藁に、テッドは所々穴の開いた布を被せようとしていた。 恩人の使う寝台を即席で作るためである。 なかなかうまくできないでいら立つ彼を見るなり、シエルは苦笑を浮かべた。「そんなに気を使うなよ。第一俺は勝手に押しかけて、お節介をしてるだけだし」「そうはいきません。シエル様は僕らの恩人ですから! シエル様がどうでもよくても、僕らはよくありません」 言いながらテッドは藁山と格闘を続ける。 やれやれと吐息をもらすと、シエルはすっかり埃をかぶった踏み台に腰を下ろし、転がっていた毛糸玉を抱き上げる。 必死に抵抗するその背をなでながら、シエルは何とはなしに口を開いた。「ところで、作物の出来はそんなに悪いのか?」 テッドの手がふと止まった。 ようやくシエルの手から逃れた毛糸玉は、一目散にその足元へと走る。 が、テッドは力なくうつむき、悲しげにこう言った。「たぶん、土が駄目になっているんだと思うんです。光も水も充分なはずなのに、ひょろひょろの茎しか生えてこなくて……」 せめて森の枯れ葉がもらえれば。 そう言って目を伏せるテッド。 手持ち無沙汰になったシエルは足を組み、膝の上に頬杖をついた。「……何だ。さっきの薬草といい、ずいぶん勉強してるんだな」 驚いたように言うシエルに、テッドは勢い良く首を左右に振る。「そんな……そんなことありません! 長老から少し聞いただけで、到底シエル様には及びません!」「俺は見ての通り落ちこぼれさ。この年で導士になれないのを見れば解るだろ?」 苦笑いを浮かべるシエルに、だがテッドは更に食い下がった。「そんな……。シエル様は母さんを助けてくれました。お城から出てこない神官に比べたら、ずっと…&hellip
テッドは枯れ枝を大切そうに暖炉にくべながら、毛布にくるまり青い顔をして震える母の姿を見つめていた。 彼の足元では真っ黒な猫が、呼び名そのままの毛糸玉のように丸まっている。 火がはぜると同時に、彼は弾かれたように立ち上がった。 その視線の先に深皿と木の椀を手にしたシエルがいた。 息を飲んで見つめるテッドの前で、シエル持ってきた深皿にデマムの粉を入れ水を注ぎ、匙(さじ)で丁寧に液体をかき回す。 みるみる暗褐色に変化した液体は、どう見てもおいしそうとは言えない。 思わず顔をしかめるテッドに、シエルはわずかに笑った。 「薬なんだから、多少は苦いさ。……俺がもっと真面目に修練していれば、癒やしの言葉ですぐに治すこともできるんだろうけど」 言いながらシエルは液体を木椀の中に注ぐ。 流れてきた青臭さに、テッドは吐き気を覚えて思わず口元をおさえた。 「すみません……あの……」 「生暖かくならないうちに。ぬるくなると、もっと不味くなる」 わかりました、とテッドは受け取る。 恐縮する母の背を支え、テッドはどろどろの液体を飲ませながら謎の神官に問うた。 「神官様は不真面目なんですか?」 一瞬、暖炉をかき回していたシエルの手が止まる。 怒鳴られる。 テッドは首をすくめたが、意外にも室内に響いたのは低い笑い声だった。 「神官様?」 「シエルで構わない。自分で言うのも何だけど、落ちこぼれの不良神官だからな」 「落ちこぼれ、ですか?」 その時、テッドの口を白く細い手がふさいだ。 他でもない、テッドの母である。 唇の色は未だに青いが、頬には心なしか血の気が戻っているようだった。 「失礼なことを言ってはいけません。先を急ぐ旅の途中に、わざわざ足を運んでくださったのだから……」 そして女性はテッドと同じ薄い水色の瞳を伏せ、頭を垂れる。 緩やかに波打つ柔らかな金髪が、光を振りま
凍てついた風に頬を赤く染めながら、少年は細心の注意を払いながら森の中を歩いていた。くすんだくせ毛の金髪は、風に吹かれるたびにふわふわと揺れている。昼だというのに薄暗い森の中は、少年にとって恐怖の対象でしかなかった。特に曲がりくねった木の枝は、まるで罪人が落とされるという地の底から伸びてきて、こちらに来いとでも言うように手招きをしているようにしか見えない。けれど、少年にはどうしてもこの森で手に入れなければならない物があるのだ。例え彼の命に代えてでも。しかしその固い決意に反して、彼の体は小刻みに震えていた。足を止めては駄目だ。森に住む魔に喰われる。いや、それ以前に……。恐怖に押しつぶされそうになりながら、大木の幹に寄りかかり、少年は大きい息をつく。かじかんだ手に白い息を吹きかけ、再び足を踏み出そうとする、その時だった。「こんなところで何をしてる? 早く戻らないと死ぬぞ」突然聞こえてきた耳慣れぬ男の声に少年は驚いて飛び上がり、その場にうずくまるようにして土下座する。そして、手に握りしめた草を頭上に掲げながら、森中に響くほどの大声で叫んだ。「ごめんなさい! 勝手に森へ入るのを禁じられているのは知ってます! けれど、どうしても母さんに薬草を……。せめておとがめは母さんにこれを飲ませてからに……」しばし沈黙が流れる。どうも様子がおかしい。おそるおそる少年は顔を上げる。次の瞬間、思わず彼は飛びすさっていた。見たこともない男……おそらくは先ほどの声の主が、ひざまずいて彼の顔を覗き込んでいたからである。「な……何ですかっ!? あなたは、一体!」大木の根元に腰を落としながら、少年は男に向かい叫ぶ。そして、その男の様子を注意深く観察した。毛羽立ったフード付きマントと生成(きな)り